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あゆみ

おいたち

キューポラのあるまちで

吉岡さんは 1947( 昭和 22) 年、埼玉県川口市で鋳物業を営む父母の長女として生まれました。

祖父母から可愛がられたせいか、幼稚園にも一人ではいかれないほど人見知りが強く、小学校までは、えこひいきをする先生に心で反発したりすることはありましたが、口に出してはいえない……。おとなしく目立たない子どもだったそうです。

充実の青年時代

中学校では学校の雰囲気が良かったこと、友達に恵まれたことで、少しずつ自分を出せるようになり、クラス委員を引き受けたりして人前でも意見を言えるようになりました。

高校生時代、沖縄出身の先生から「沖縄で反戦運動をして米軍に拷問を受けた」という話を聞き(当時沖縄は本土復帰前で、アメリカの支配下にあった)日本は独立国で平和な国だと思っていた吉岡さんは大変ショックだったそうです。

生徒会の役員となり、高校生フェスティバル参加で『生き生きと自主的に活動している高校生』と出会い、人間らしい社会を目指す生き方を志すようになりました。尊敬していた先生に共鳴し、18歳の誕生日に日本共産党に入党。自分も将来は教師になりたいと考え北里大学へ進みました。

大学では、化学を専攻。卒業後、清泉小学校の教諭になり、理科を教えました。仮説実験授業を提唱する板倉先生の研究室で学習したり、公立の先生たちと理科サークル「アルコル」をつくり、わかりやすい楽しい授業をめざしました。また、私学助成の増額と豊かな教育環境づくりのための運動をすすめました。

結婚、そしてふたたび子どもたちの中へ

教師になった翌年結婚・・・。そして3人の子どもたちは小規模の「たんぽぽ共同保育園」に入園。吉岡さんは保護者の立場で運営に参加
し、保育士の労働条件の改善、保育料値上げに反対、補助金の増額のため市と交渉したり、保育所の条件整備のために活動しました。

清泉小学校を退職後、子育てをする中で乳幼児期の大切さを強く感じた吉岡さんは、「ふたたび働くならやはり教育関係」と、今度は保育士として「たんぽぽ共同保育園」で働くことになりました。
県に小規模保育所への補助金をつけさせるために、県内の保育士さんや保護者たちとねばり強く交渉して実現させました。
また、たんぽぽ共同保育園に乳児 14人余りが入れなかったときも、みんなで市と交渉して全員入園の道を開きました。

保育園では、桑の実やオタマジャクシ、せり、つくしとりなど四季の変化にふれる楽しみを求めて子どもたちと散歩に出かけました。
「いろいろな興味を持たせてもらい、虫や花の好きな子になりました」と園児のお母さんに言われたことが何よりうれしかったそうで
す。

エピソード

「しんぶん赤旗」の配達をしてくれたのが彼でした。誠実そうな彼がいつしか気にかかるようになったそうです。「つきあってもらえませんか?」と申し込んだのは彼女から……。それからの二人は映画鑑賞、オートバイで江ノ島に行ったりして意気投合。結婚するまでそう時間がかかりませんでした。
しかし、なかなか会う時間がとれなかったため、交換日記をつけて愛をはぐくんだそうです。