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太平洋戦争の痕跡をたずねて(山ざくら2018年1月号より)

「鎌倉は空襲を受けなかったので、戦争関連の記録が残されていない」という言葉にあえて抵抗して、戦争の痕跡を探ったグループ(CPCの会)の記録集が、図書館においてある。

そこには➀米軍の相模湾上陸に備えて造られた鎌倉地域の陣地構築の跡(調査は約50箇所)②富士飛行機や海軍工廠など軍事施設③体験談などが収められているが、まず陣地構築の跡を見ることにする。これは普通の防空壕とは違う迎撃用の地下壕陣地のことである。

【腰越地区】神戸川の中流、県道のバス停「白山橋」から西側を振り向くと川の上に榎などが覆い被さる辺りに風情のある谷戸(神明谷戸)が見えた。現在は福祉施設が建てられている。調査当時は、谷戸全体は個人宅と畑になっており、最奥に御墓もあった。谷戸の左右に4箇所の穴が掘られ、3箇所はコンクリートで蓋をされていたが、住人のSさんは子供の時、中で遊び、入口から入ると2度3度と直角に曲がり、出口まで貫通していたことを覚えている。今はその穴の上から少しそれたところに大きな住宅地が出来ている。1箇所だけ高いところに銃丸のような穴が見え、よじ登ってみた。県道の方が見下ろせた。これは一例だが、かつては御所谷、北谷、さんざい、猫池のあたりにも穴の跡が見えていた。戦後兵隊から帰った人の記憶では、今の手広中学近辺には大きな要塞砲が運び込まれ、京浜急行の道路には大砲15~16門が並んでいたという。それらが火を吹くこと無く終わったのは幸いで、鎌倉も戦争の惨禍と隣り合わせだったといえる。(寄稿)

〇山ざくらは腰越・深沢の一部に配布している地域新聞です。(吉岡和江)